深夜2時、港区の高層オフィスの社長室のデスクで、神崎(かんざき)はひとり赤ワインのグラスを傾けていた。
創業から10年。神崎の立ち上げたITスタートアップは上場を果たし、メディアは彼を「時代の寵児」と持ち上げた。だが、光が強くなれば影も濃くなる。SNSには根拠のない批判が溢れ、創業期からの役員からは経営姿勢への不満をほのめかされ、銀行からは冷徹な数値を突きつけられる。経営者とは、嫉妬と怨嗟の標的だ。彼が背負う孤独の深さを知る者は誰もいなかった。
ただひとり、広報部の麻美を除いては。
麻美は、神崎の妻・由紀の大学時代の後輩でもあった。かつて神崎の自宅で催されたホームパーティーにも顔を出し、由紀とも笑顔で言葉を交わしていた女だ。
「神崎さん、最近少しお疲れじゃないですか? 由紀さんも心配してましたよ。でも……私にはわかります。あなたがどれだけの重圧と戦っているか」
ある晩の残業後、社内の給湯室で掛けられたその一言が始まりだった。
神崎にも「遊びのルール」くらいは分かっていたはずだった。行きつけのバーで出会う名前もろくに知らない相手や、割り切った関係の女性であれば、金と潮時さえ見極めれば破綻はしない。
しかし、身近な女の甘言は毒のように身体に回った。神崎は麻美と一線を越えた。
最初は密やかな慰めだった。しかし、関係が重なるにつれ、麻美の瞳に宿る光が変わっていった。それは純粋な好意などではなく、他人の完璧な人生を裏から支配しているという狂気的な「優越感」だった。
麻美は、妻・由紀とランチに行った話をわざわざ神崎にするようになった。「今日、由紀さんとランチしたんです。神崎さんの家での様子を聞いちゃいました」と、愉悦を隠そうともせずに囁く。神崎が会社で役員と対立した日は、「あんな頭の固い人たち、神崎さんの足元にも及ばないのに」と、神崎の孤立感を煽り、全能感を肥大化させた。
「自分は特別な存在だ。この重圧に耐えているのだから、これくらいの贅沢は許される」
神崎自身もまた、麻美の毒に侵され、自分が侵している禁忌の深さに「悦」を覚え始めていた。不倫はただの不貞から、狂気じみたゲームへと過激化していった。
破滅は突然訪れた。
由紀の元に、匿名で送られてきた一冊のアルバム。そこには、神崎と麻美の密会写真だけでなく、麻美が由紀の自宅で笑顔で並んでいる写真、そして麻美がSNSの裏アカウントで「あの人の一番近くにいるのは私。奥さんは何も知らない」と綴った投稿のスクショがびっしりと貼り付けられていた。
送り主は、麻美本人だった。復讐心と自己承認欲求の果てに、彼女は自らすべてを爆破したのだ。
社内は騒然となり、役員会からは退任要求が突きつけられた。妻からは離婚調停と巨額の慰謝料を請求され、メディアは「裏切りの社長」と叩き立てた。
社長室で詰め寄る役員や弁護士を前に、神崎は冷や汗を流しながらも、どこかで冷め切った自分に気づいていた。動揺を見せるどころか、むしろ「俺を追い詰める奴らが悪い」「すべてを奪ってみろ」と、不敵な笑みさえ浮かべて開き直っていた。狂気は彼の中に深く根を張っていた。
だが、すべてを失い、誰もいなくなった誰もいない社長室で、神崎はようやく己の愚かさに気づく。
行きずりの関係であれば、ただの欲望の処理で済んだ。 しかし、妻を知り、会社を知り、己の孤独に付け込んできた身近な異性に手を差し出したこと。それは好意などではなく、妬みと引き換えに差し出された「劇薬」だったのだと。
「近くの女にだけは、絶対に手を出すな」
虚空に向かって呟いたその戒めを聞く者は、もう誰もいなかった。
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