薄暗くなり始めた喫茶店の奥の席で、麻衣は冷めきったカップを見つめたまま、俯いていた。
「……彼といる時だけ、息ができる気がするんだ。夫との間には、もう昔みたいな高鳴りなんてない。情だけで繋がっている冷えた関係を続けるより、この気持ちに正直に生きたいの」
震える声でそう告げた麻衣の表情には、深い迷いと同時に、「これは運命の恋なんだ」と自分に言い聞かせるような意固地さが浮かんでいた。テーブルの上に置かれたスマートフォンを、何度も気にするように視線が彷徨っている。
俺は頼んでいたブレンドコーヒーを一口すすり、静かにカップをソーサーに戻した。
「麻衣、幼馴染だからこそ、あえて厳しいことを言うぞ。お前が今感じているその強烈な感情は、愛なんかじゃない。ただの一時的な『刺激』だ」
麻衣が弾かれたように顔を上げ、何か言い返そうと唇を開く。俺はそれを手で制して、まっすぐに目を合わせた。
「思い出してみろよ。お前が今の旦那と結婚する前、付き合い始めの頃はどうだった? 会うたびに胸を躍らせて、LINEの通知一つで一喜一憂していただろ。だがな、生活を共にして家族になれば、その刺激が落ち着くのは至極当たり前のことなんだよ。それを『愛が冷めた』とか『愛を失った』と捉えること自体、根本的な勘違いなんだ」
「でも……彼は違うの。仕事がどんなに忙しくても、ほんの三十分の時間を作って私に会いに来てくれる。そこまでしてくれるってことは、本気だからじゃないの?」
すがるような麻衣の問いかけに、俺はゆっくりと首を横に振った。
「男の目から見れば、それは逆だ。忙しい合間を縫って密会する背徳感そのものが、互いの気持ちを昂らせているだけだ。制約があるからこそ、都合のいい非日常の刺激が何倍にも跳ね上がっているに過ぎない」
店内に流れるジャズの調べの合間に、夕暮れの街を行き交う車の音が遠く聞こえていた。
「考えてみろ。彼は今のところ、お前の生活の苦労も、日々の家事や将来の重い責任も背負っちゃいない。お互いに一番いい顔だけを見せ合っている『いいとこ取り』の関係だ。綺麗に着飾った時間だけを切り取って楽しんでいる場所に、お前の人生や人間性の本質と泥臭く向き合う覚悟なんて、最初から一欠片もないんだよ」
麻衣の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ち、テーブルに染みを作った。図星を突かれた痛みが、彼女の強がりを剥ぎ取っていくのが分かった。
「はっきり言うぞ。恋っていうのはな、ただ自分の気持ちの高ぶりにハマっているだけの状態なんだよ。『自分が』ドキドキしたい、『自分が』女として満たされたい、その熱に酔っているに過ぎない。でも、本当の愛はそうじゃない。相手が何を望んでいるのか、どうすれば相手が安心できるのかを想像し、思いやることこそが愛なんだ。今の彼との間に、そんな想像力があるか? お互いの都合と欲望をぶつけ合っているだけじゃないのか」
俺は身を乗り出し、少し声を落として言葉を重ねた。
「燃え上がる刺激を求める『恋』と、日々の生活を愚直に積み重ねていく『愛』。その違いを腹の底から理解しない限り、お前はもし今の男と一緒になれたとしても、数年後にまた同じことを繰り返すぞ。平穏に耐えられなくなって、また次の刺激を探しに行くだけだ」
「都合のいい刺激へ逃げ込んでも、本物の愛には絶対に辿り着かない。夫婦の本当の愛っていうのはな、胸を締め付けるようなドキドキじゃない。お互いの人生の困難な時や本当に苦しい時に、一緒にいて心から安心と安らぎを感じられることだ。そのかけがえのない安らぎは、日々の暮らしを愚直に積み重ねていく中でしか生まれないものなんだ」
麻衣は涙を手で拭いながら、ぎゅっと握りしめていたスマートフォンから、ゆっくりと力を抜いた。
「もう目を覚ませ、麻衣。お前が縋りついているのは、都合よく作られたただの幻だ。引き返せなくなる前に、自分が本当に大切にすべき日常へ足を戻せ。あんな場所に、お前の未来なんてない」
完 *実話です*
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