言葉で説明したら負け そんな矜持を最近聞かなくなった気がする。
アートや音楽界隈で、以前は一定数そんなポリシーを持つ人を見かけていたと思うのだが。
※毎度結論無し、学び無し、役立たずの駄文です。
以前入り浸っていた絵描き掲示板では
わたしのあざといまでの記号を入れ込む
いわば過剰説明なキャラデザは
「あいつはまぁそういう芸風だからな」
的な立ち位置に収まるくらいには、
補足説明を潔しとしない空気感があった…気がする。
音楽なんかでもラジオやなんかで新アルバムの
話題なんかでゲストに出てきても、
まぁ聞いてもらえればわかる、みたいなアーティストと
こんな風に感じた、という聞き手側に
ある種緊張感みたいなものがあった…
ような気がする。
それまでは作品を出したところから、
説明を加える場所なんか無かったのが
SNSが発達して、各自メディアを持つような形で
説明の場を持てるようになったのも
そんな空気を変えた遠因かも知れない。
が、ここ最近特に顕著に感じるのはAI台頭に対する
危機感の表れ、アイデンティティの危機に対応する形なのか
作品や作者のメタ情報が語られるのが、
以前よりも大分増えた気がする。
そういう楽しみ方があるのは勿論なのだけれど、
それって料理が出てきて皿の美しさを語るような
ちょっと本質とずれてない?
と思う事もある。
音楽聞いて、音の形、音の組み合わせ、音の変化から
絵を見て、色の変化から、線の形から、筆の運びから
何某か感じて感情が動く。叫びたくなったり
胸が熱くなったり、心臓がひゅんっってなったり、
その事とバックボーンとかのメタ情報って
繋がる事もあるけれども
基本的には関係の無いもののように思うのだ。
説明できることもあるかも知れないが、
言葉に変換したとたんロストするものだって沢山ある…
のだと思う。
とにかく見て聞いて感じてみてください。
そういうスタンスが珍しくなった気がする。
かわりに増えたなと思うのが、
あれこれしたあれが、ここに詰まってます
だとか、どれこれがここに活きてます、みたいな。
たぶん今後もっと強まるだろうとおもう。
バックボーンを持たないAIとの差は
そういう所がメインになるだろうから。
恐るべきことに、AIが生成した
バックボーン無しの音楽からでも
なんかわくわくしたり、希望が湧いたり
みたいな心の動きを得られてしまうのだ。
(この音楽SUNO製だけど、何か始まりそうな
ワクワク感だったりみたいなの感じません?
ただ、問題なのがこの音楽
「壮大なシネマティックファンファーレ」
って指定して出てきたもの。
全然ちがうくね? 意味わからん)
けれども、そこで人間アーティストが
AIと違う自分というメタ情報を強調すればするほど、
受け手側の作品を感じ取る能力が
メタ情報側に偏ってしまい本質側から
受け取れなくなってしまわないだろうか。
などという事を
仕事忙しいの現実逃避に
思い続けるのであった。
毎度結論無いのに最後まで読んで頂いてありがとうございます。
ねよ。